◆坂本龍一のルーツ[御先祖の話]が超面白い!教授も知らない事が判明!全編完全解説!◆

オッドアイ猫読者の皆さまこんばんは、アッキーです爆笑

 

春の夜のひと時を、いかがお過ごしでしょうか?

 

オッドアイ猫今晩は、昨日の夜中にテレビで放送していました番組

『ファミリーヒストリー”坂本龍一 父との葛藤 福岡藩黒田家に仕えた先祖”』についてお送りしたいと思います♪

 

見逃した方のために、全内容を詳細に解説していきます!

 

 

 

オッドアイ猫坂本教授は昭和27年1月17日、東京都の中野区にて、父”坂本一亀(かずき)”さんと、母”下村敬子”さんの間に長男として誕生しました

 

そして、その御両親の家系図がこのようになっております↓

 

 

オッドアイ猫まず根本的ルーツとも言える曽祖父の”坂本兼吉(かねきち)”さんの調査から始まりました

 

兼吉さんはこの明治41年当時、福岡県朝倉市甘木町という所に住んでいました

 

朝倉市はその昔、秋月城があった城下町で、とても賑わって栄えた所です

 

スタッフが朝倉市の中央図書館で調べた所、大正5年の地図に”料理坂本”と言う名前で家の場所が載っていました!

 

料理坂本は日本料理店で、昭和の初めまでとても繁盛していたようです

 

オッドアイ猫さらに古い資料をたどって行くと、兼吉さんは”旧三奈木村の英彦山道の坂の下”の部落の出身と言うことが分かりました

 

オッドアイ猫現在の”朝倉市坂の下”という場所になりますが、どうやら『坂本』の名前の由来は”坂のふもと”から来ているようでした

 

オッドアイ猫そして、その坂の下付近の、現在も住んでおられる坂本さん達を調べていくうちに、そこの部落に住んでいた人達は黒田藩の足軽だったと言うことが分かりました。

 

現存する黒田家の古い資料を調べた所、兼吉さんの名前と共に、更にその父親の”武七(たけしち)”さんの名前が資料に書かれていました!

 

 

オッドアイ猫つまり、坂本教授の父方の祖先は足軽侍で、国境である英彦山街道沿いを護る役目を代々任されていました

 

これを知った坂本教授自身も、とても驚いていました!(笑)

 

坂の下と言う場所は、黒田家のある福岡藩と、隣の久留米藩との境にあって、進入者を阻止するとても重要な場所であったと思われます  

 

 

オッドアイ猫江戸時代に福岡県朝倉市坂の下で、足軽として黒田家に仕えていた坂本家でしたが、明治時代になると、殿様から褒美を頂くことも無くなり、生活が大変になって来た事もあり、明治の中頃に当時栄えていた町であった”甘木町”の方に引っ越すことになりました

 

甘木町に引っ越してから、先程も書きました”料理坂本”を始めたのです!

 

甘木町は、福岡と大分を結ぶ交通の要所で、商業の盛んな町でもあり、すぐに料理坂本は繁盛したと言うことです

 

オッドアイ猫そして何と、坂本兼吉さんは、その町で成功をして、地元では有力者で”親分”と慕われていました。

 

今でも神社の鳥居の寄進者や、神社内の相撲施設の中の番付表に”世話人”として兼吉さんの名前が残っています

 

そして、明治35年になると、兼吉さんのもとに教授の祖父である”昇太郎”さんが誕生しました

 

興行者の父の影響もあり、昇太郎さんは芸事が好きな少年に育っていきました

 

 

オッドアイ猫地元の資料館で、昇太郎さんの事について書かれた、当時の貴重な新聞が見つかりました

 

昇太郎さんは素人歌舞伎の人気投票で1位を取っていた人気の少年で、いわゆる当時のアイドル的な存在だったようです

 

オッドアイ猫甘木では江戸時代から素人歌舞伎の”盆にわか”と言うものが盛んで、昇太郎さんはそこの指導役もやっていたようです

 

昇太郎さんは22歳で、料理坂本で働いていた店員の”タカ”さんと結婚します

 

そして、その二人に間に生まれたのが、坂本教授の父親である”一亀”さんです

 

オッドアイ猫昭和6年になると、甘木町に有力者達が協力して”甘木劇場”が出来ました

 

そこの経営者として、29歳の若さで坂本昇太郎さんが抜擢されました

 

しかし設立後2年経ったある日、劇場の入り口で起こった喧嘩が元で、劇場窓口の係りの人が巻き込まれて殺される言う事件が起こり、その責任を負わされ、昇太郎さんは経営者から降ろされてしまいました

 

 

オッドアイ猫その後、昇太郎さんは福岡の生命保険会社に、単身赴任して働き出します

   

その赴任先である福岡で、何と、妻とは別の女性と暮らすようになってしまいます

 

後には妻のタカさんと、教授の父親であり長男である一亀さんを含む、6人の子供を残して行ってしまいました

  

一亀さんは、そんな父親を見ていたせいか、曲がった事が嫌いで、下の弟達にもすごく厳しい躾をしていたようです

 

 

オッドアイ猫昭和15年、一亀さんは日本大学文学部に入学し、翌年には太平洋戦争が始まり、徴兵されてしまいます

 

入隊したのは佐賀にあった電信第二連隊で、戦地に向けてモールス信号を打つ仕事をやっていたようですが、ここがかなり厳しい環境であったようです

 

毎日上官からビンタをくらい、駆け足をやらされたり、時にはしゃもじで頭を割られる位強く殴られたようです

 

オッドアイ猫一亀さんは昭和19年に、ロシアの国境付近の旧満州の”東安”に配属されます

 

マイナス30度の極寒の地で、凍傷になりながらもモールス信号を打つ毎日でした。。。

 

 

オッドアイ猫昭和20年4月、突然、東安から福岡県筑紫野市の通信基地に移動を命じられます

 

そしてその4ヵ月後、とうとう終戦を向かえました

 

一亀さんが日本に帰って来た一方で、東安に残された大勢の仲間達は、シベリアに抑留され、強制労働を強いられました

 

その仲間達の事を思い、一亀さんは罪の意識と、仲間達への悲しみの気持ちに打ちひしがれて、戦後の一時期は家に引篭もっていたようです

 

オッドアイ猫半年後、一亀さんは近所にあった鋳物工場で働き始めましたが、工場の同僚が給料が安いので賃金を上げて欲しいと言う話を聞いて、独りで社長に直談判をした所、あえなく玉砕し、なおかつ社長から問い正された従業員達は、要求について知らぬ顔をしたので、人間不信になってすぐに工場を辞めてしまいました

 

オッドアイ猫仕事を辞めた後、一亀さんは文学好きな若い連中を集めて、同人誌の発行を始めました

 

それが一亀さんにとって人生の岐路で、水を得た魚のようになってイキイキと活動を始めました

 

その時作った雑誌が『朝倉文学』と言う本です

 

 

たまたま甘木に療養でやって来ていた東京の出版社の人がその同人誌を見て、一亀さんに東京の出版社で働くことを勧めたのでした

 

そう、ここが人生の大きな分岐点で、坂本教授が後に東京で誕生する原因になった出来事でした

 

オッドアイ猫昭和22年、一亀さんは東京神田にある”河出書房”に勤めるために上京しました

 

一亀さんはそこで、小説の編集者として働き始めました

 

そこで働き始めた2年後のある日、保険会社で働いていた父親の昇太郎さんから突然電話が入りました

 

オッドアイ猫昇太郎さんは

 

『上司の娘さんが、お前の担当した本を読みたがっている』

 

と告げて、一亀さんはそのお宅に本を届けに行きました

 

その本は『永遠なる序章』と言う”椎名麟三”さんの本で、その届け先と言うのが坂本教授のお母さんになる下村敬子さんのお宅でした

 

オッドアイ猫そこに現れたのはとても笑顔の可愛らしい女性でした

 

これが一亀さんと下村敬子さんの運命の出会いでした

 

 

オッドアイ猫さて、ここからは、母方の下村家の歴史に移りたいと思います

 

下村家のルーツは、長崎県の諫早市です

 

オッドアイ猫教授の母方の曽祖父である”代助”さんは、諫早で農業を営んでいました

 

小作人としての生活は貧しく、代助さんは家族と共に、明治38年4月に佐世保市の方に移住します

 

当時は日露戦争の最中で、造船業が盛んな活気に溢れた街だったようです

 

オッドアイ猫代助さんは取り合えず、市役所の臨時雇いとして働き始めました

 

町の中を仕事を募りながら歩き回る”何でも屋”的な仕事でした

 

その代助の三男として生まれたのが、教授の母方の祖父である”弥一”さんでした

 

 

オッドアイ猫弥一さんは学校の授業で、リンカーン大統領の事を学び、自分の日記で

 

『リンカーンは貧乏な家に生まれた。自分も同じく貧乏な家に生まれたが、努力して偉くなろうと夢と希望を持つようになった』

 

と書き記しています

 

学問への意欲が大きく、高等中学校に進みたかったですが、家の事情で小学校を卒業後、働きに出るしかありませんでした

 

そして軍艦などを作る”佐世保海軍工廠(こうしょう)”に、見習いとして勤め始めました

 

オッドアイ猫毎日油まみれになって働いていましたが、どうしても進学の夢を捨てきれず、突然、佐世保中学の校長先生の所を訪ねて”編入”を認めてくれるように直談判をしに行きました

 

そこで、中学4年生に編入をさせてくれるよう頼んだ所、試験に合格したら了承しようとの返答をもらいました

 

弥一さんはそれから、寝る間も惜しんで、勉強に明け暮れて、翌年の3月見事試験に合格し、中学校に入ることが出来ました

 

 

当時18歳で、中学4年生としてスタートをきりました

 

父親の代助さんは、息子の学費を工面するために必死で働きました

 

オッドアイ猫大正8年には、熊本にあった第5高等学校(現熊本大学)に成績優秀で合格して、奨学金をもらえるようになりました

 

弥一さんはその学校で、生涯の友人となる”池田勇人”さんと出会いました

 

そうです、後の総理大臣となるあの池田勇人氏です!

 

オッドアイ猫大正11年、弥一さんは京都の帝国大学法学部に入学、その2年後に弥一さんのもとに、佐世保の小学校時代の恩師”三浦朝千代”さんが娘の”美代”を連れて訪ねてきます

 

そこで、二人を京都の観光案内に連れて行った所、突然、朝千代さんから、娘の結婚相手になって欲しいと言われました

 

そしてその二年後、弥一さんと美代さんはめでたく結婚をしました

 

 

オッドアイ猫大正14年、弥一さんは共保生命保険に入社し、3年後には教授の母である”敬子”さんが誕生しました

 

弥一さんはその後順調に出世していき、35歳で新潟の支部長になり、翌年には新橋の支店長になりました

 

その後、保険会社の取締役まで登りつめて行きました

 

オッドアイ猫弥一さんは、敬子さんを含む4人の子供達に恵まれました

 

 

美代さんは子供達の教育にとても熱心で、特に音楽に力を入れていました

 

子供達には小さい頃から、童謡からクラシックまで様々なレコードを聴かせて育てました

 

三男である”三郎”が小さい頃、音を楽しむために、茶碗や皿を縁側で割っていたのも、やさしく許していたということです

 

オッドアイ猫教授の母である敬子さんは、幼い頃から琴やピアノを習い、音楽が得意な少女に育ちました

 

音楽だけではなく、スポーツでも勉強でも何でも立派にこなす才女だったようです

 

 

敬子さんは特に読書が好きで、ある日父親の弥一さんから

 

『部下の息子が出版社の編集長をしている』

 

と言われ、それを聞いた敬子さんは

 

『その人が担当した本を読んでみたい』

 

と父親に伝えました

 

そして、一亀さんが敬子さんのもとを訪れて、本を届けると言う運命の日を迎えたのでした

 

オッドアイ猫昭和23年、一亀さんは初めて敬子さんと会った日のことをこう綴っています

 

『若々しくて健康そうな彼女に好感をもった』

 

敬子さんの方も、文学に対して熱く語る一亀さんに魅かれるようになっていきました

 

 

オッドアイ猫敬子さんは、育ちの良さと愛くるしい顔立ちから、周りの男性達にずいぶんもてたようでしたが、それを無視しながらも一亀に魅かれていきました

 

一亀さんはその頃、新人作家の発掘に力を入れていました

 

その時見つけて声をかけたのが、当時の大蔵省に努める役人の男で、後に日本文学界を代表する”三島由紀夫”氏だったのです

 

オッドアイ猫一亀さんは三島由紀夫氏に長編小説の依頼をして、それを快く受けた三島氏は数日中に大蔵省を辞めて執筆活動に入りました

 

それで完成した作品が三島由紀夫著の『仮面の告白』で、当時の文学界に衝撃を与えた作品だったようです

 

オッドアイ猫その出版の1年後、一亀さんと敬子さんが結婚をします

 

 

一亀さん28歳、敬子さん23歳の時でした

 

そして、その2年後に長男である坂本教授こと”龍一”が誕生しました

 

オッドアイ猫一亀さんは、仮面の告白が成功した後も、相変わらず新人の発掘に勤しんでいました

 

一亀さんは新人作家の指導にはとても厳しく、いつも『このやろう、バカヤロー』と怒鳴っていたようです

 

オッドアイ猫その後、有名になった水上勉さんも対談集の中で、一亀さんに小説を4回も書き直させられたとこぼしています

 

水上さんは小説『霧と影』で有名とになり、テレビドラマ化もされ、一亀さんと共にワイドショーに出演したこともありました

 

 一亀さんは新人作家達にいつも『妥協するな最善をつくせ』と言って、厳しいながらも手厚く面倒を見て、後に有名になる”椎名麟三”や”野間宏””小田実”などの数々の著名な作家を育て上げました

 

 

一亀さんが仕事で忙しく飛び回る一方で、母親の敬子さんは、やさしく龍一少年の面倒をみて幼い頃から音楽の環境に触れさせました

龍一少年に3歳からピアノを弾かせて、作曲も習わせました

 

 

 オッドアイ猫父一亀さんは、仕事終わりに毎晩飲み屋で、作家達と激論を交わし、帰宅はいつも午前3時頃になるのが普通でした

 

それも酔っ払いながら、近所を大声で歌いながら帰って来る毎日だったようです

 

一亀さんは家にいる時も、電話で作家達に対して大声で怒鳴る毎日だったので、龍一少年はいつしか父親を恐がるようになっていたのでした

 

 

恐怖心から、父親の目をまともに見ることが出来ず、子供の時は人と目を合わせると、視線をそらしてしまうのが癖で、どちらかと言うと根暗な印象を与える少年だったようです

 

オッドアイ猫龍一少年の楽しみは、当時数学の教師であった叔父の三郎さんの家に遊びに行くことでした

 

幼い頃、茶碗の割れる音を楽しんでいた三郎の家には、沢山のクラシックレコードがありました

 

龍一少年が中学2年の頃に見つけた一つのアルバム『ドビュッシーとラヴェルの弦楽四重奏』が衝撃を与えました

 

 

それを聞いた龍一少年は、それから熱心にドビュッシーを聞き始めて、自分はドビュッシーの生まれ変わりだと思うくらい傾向していきました

 

オッドアイ猫そして、昭和45年東京藝術大学音楽学部作曲科に入学、昭和53年には皆さんご存知のYMOとして華々しいデビューを飾りました

 

テクノポップと言う流行も作り出し、当時としては珍しく”男性の化粧”と言うファッションも生み出しました

 

 

それを見た父一亀さんは『なんで音楽で勝負せんか。俺はお前をピエロにするために音楽学校に入れたわけじゃない!』と大声で怒鳴りました

 

オッドアイ猫その5年後には、映画『戦場のメリークリスマス』で俳優としてのデビューと、初めての映画音楽を作りました

 

昭和63年には映画『ラストエンペラー』の音楽を担当し、その作品で日本人として初の”アカデミー賞作曲賞”を受賞しました

 

 

そのアカデミー賞の後の、親戚同士のパーティーの席上でも、父一亀さんと教授は、お互い目を合わせず、横に並んでただ話をしていたらしいです

 

 

オッドアイ猫そんな中、沖縄の古い曲をアレンジした曲をアルバムに入れた所、父一亀さんが

 

『これはお前の(オリジナル)の音楽じゃない。何でこんなものを入れるんだ!』

 

と激怒したようです

 

そこで教授は『いやこれは俺の音楽だ!』と初めて、父親に刃向かって大喧嘩になったようです

 

 

オッドアイ猫平成4年にはバルセロナオリンピックの開会式の音楽を担当、父一亀さんは、周りの家族や知り合い親戚に対しても、一度も教授のことを褒めたことは無かったようです

 

誰かが一亀さんに電話をして『息子さんが、えらく有名になりましたね』と伝えると『あいつはあいつ、私は私です』とキッパリと返答したようです

 

あのアカデミー賞を獲得した教授の事を怒れる人間は、誰もいないと思ったら、ただ一人身近な父親がそうであったと言う話です

 

オッドアイ猫母方の祖父である弥一さんは、昭和60年に、東京生命の社報にOBとして、孫である教授のことについて、こう記載しています

 

『龍一は新しい音楽家として青少年の間に知られるようになりました。私も長寿のおかげで孫の成長をみることができて、しあわせに思っております』

 

その後、弥一さんは大手冊子メーカーの専務に就任し、更にその後”東亜国内航空”の初代会長を務めました

 

祖父の弥一さんは、貧しい農家に生まれながらも、苦学の末大学を卒業して、日本を代表する経営者になったのです!

 

 

弥一さんは平成2年享年92歳で生涯をとじられました

 

オッドアイ猫一亀さんは60歳まで編集者で勤めれていました

 

一亀さんの晩年の言葉として

 

『戦後は私にとって余命だった。戦争でもう死んだという感じがあって、多くの同世代の仲間が死んで、その人達のためにも頑張らなければいけないと思って、同世代の仲間達を育てるということをやりたいと思ってきた』

 

と言われていました

 

卒論のインタビューに来た大学生に対しても

 

『僕の言うことで(自分自身の意見が)変わってはいけない。君のままでありなさい』

 

と伝えていました

 

その2年後の平成14年に一亀さんは80歳で生涯をとじられました

 

 

オッドアイ猫その時のお別れの会の中で、教授自身の作った父親に対する思いを綴った冊子を配りました

 

その中には。。。

 

『父とはまともに話をしたことがないのが悔やまれる。創作に携わるものの大先輩として、聞いておきたいことは山ほどあったのだが。。。父は自分の思いを他人に伝えるのがへたな人だった。愛するのも、愛されるのもへたな人だった。最後までそういう人だった』

 

と綴っていました

 

オッドアイ猫番組の最後で、一亀さんが勤めていた出版社に残っていた一亀さんの日記を紹介していました

 

その中には教授が生まれた日の事が書かれていました

 

『男子生る!何かしら微笑みを禁ずることができないのだ』

 

初めての男の子を授かって、思わず、周りのことを忘れて、にやけてしまう程、嬉しかった気持ちを、日記に残していたのです

 

『間もなく婦長に抱かれた赤児を見る。大きく、きれいなのだ!標準を突破した偉大な赤ん坊なのだ!』と続けています。

 

更に教授がYMOとして活躍していた頃も、出演していた番組名や雑誌を全てチェックしていました

 

おそらく、教授や周りの人には分からない所で、自慢の息子の事を喜んだり、心の中で応援していたのだと思います

 

人に対して”不器用な”対応しか出来ない父親でしたが、その父親の影響は計り知れないものがあったと思います

 

 

オッドアイ猫では、今回は最後まで読んでいただいてありがとうございます

 

ぜひ、感想のコメントやリブログなどお気軽にして下さい

 

そして、この番組はいつかまた再放送をすると思いますので、今のうちから予約を入れて待機する等万全の対応をして待っていて下さい♪

 

では、またすぐにブログを書きたいと思います♪